少弐景資は元寇襲来に際し、大将軍として九州御家人達の指揮にあたり、父の資能や兄の経資共に蒙古軍と戦った。『八幡愚童訓』によると、文永11年(1274年)の文永の役で、景資は10月20日での博多湾沿岸での戦闘において「日の大将軍」であったと言い、景資ないし彼の郎党が蒙古軍の副司令官の一人(征東左副都元帥)であった劉復亨と思しい人物(流将公)を矢で射止める大功を挙げたと言われている[1]。弘安4年(1281年)の弘安の役にも参陣して奮戦した。        

 父資能の死後、兄の経資との間で家督をめぐる争いが起り、弘安8年(1285年)に鎌倉で有力御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱とが対立した霜月騒動が起きると、景資は泰盛側に与して泰盛の子で肥後国の守護代・安達盛宗と共に筑前国で挙兵したが、頼綱側に与した兄・経資の追討を受け、居城である岩門城で敗死した(岩門合戦)。享年40。  (ウイキペディアより)        

 元寇襲来はわが国歴史にとっていかに大きな危機であったか。「文永の役」 元軍4万人、軍船900艘、日本軍10万人、軍船300艘、「弘安の役」 元軍15万7000人、4400艘、日本軍25万人、軍船不明、が博多湾に集結したもの。俗には「神風」が勝利の理由とされているが、事態はそんなに単純なものでない。        

 景資の功績は偉大であった。景資は太宰府で生まれ、その墓は那珂川市にある。後世の人々は景資の功績を正当に評価しているか、その墓所は最近まで所在も明確にされてなかった。武藤家は少弐の正当な家系として今も太宰府市にある。今われわれ後世はこの歴史偉人を正しく顕彰すべきではないか、これが「那珂川市郷土史研究会」運動の原点でもある。